Kyoto Kitchen
東京から地方へ。滞在型シェアハウス。
僕も住んでいる「箱庭の家」が名称を改め、「KyotoKitchen」になりました!
2011年11月15日
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2011年7月24日
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社会的な記憶をもった「場所の力」は、これからどのようにして再構築され、育んでいけるのだろう。「未来の生活景」を、我々はイメージできてるんだろうか。 RT @haruhikogoto: 生活景はどんな言語表現よりもはるかに饒舌に場所の社会的な記憶を語る力を有している。
RT @haruhikogoto: ひとつの方法は、「場所の力」の解釈と可視的表現のプロセスに市民や専門家の参加と協働を組み込み、社会へ向けて運動していくこと。RT @4wonderfulworld: 社会的な記憶をもった「場所の力」は、これからどのようにして再構築され、育んでいけるのだろう。
RT @haruhikogoto: 未来を偶然のものから必然のものとするために、未来の青写真とも言える遺伝子情報をていねいに収集すること。個々人の人生を尺度として未来を考え、それらを重ねあわせてみること。 RT @4wonderfulworld: 「未来の生活景」を、我々はイメージできてるんだろうか。
2011年7月24日
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「レジリアンス(resilience)」「NIMBY」「もやいなおし」。いま日本の色んなところで生まれてきている現実と向き合い、未来に向けて試行錯誤してゆく基礎概念になりそうな気がする。
2011年7月24日
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僕が「レジリアンス」という言葉をはじめて聞いたのは、総合地球環境学研究所の公開講座でした。たしか、「社会・生態システムの脆弱性とレジリアンス」の研究の一環として行われた公開講座だったかな。
http://www.chikyu.ac.jp/rihn/project/E-04.html
そのままでは生きて行けなくなるほどの「自然のインパクト(洪水や干ばつなど)」があった際に、人間の営みがどういった対応をしていくのか。彼女らは、洪水や干ばつによるインパクトから食料生産が劇的に減少した地域を事例に、個人レベルで、集団レベルで、自分たちの生活や営みを変えながら、インパクトによって生じた不均衡を乗り越えて行く事例を、みせてくれました。たしか2回生のときに出会ったはず。
それ以来、複雑系などの考え方と相まって、いつもどこかに、考え方の根底に、何かしらの影響を与えられている気がしています。
これからますます大事になっていくと考えていることについて、少し書きたいと思います。
「レジリアンス」(resilience)ということです。辞書を引くと「復元力」とか「弾力性」などと訳されています。私が翻訳するときは「しなやかな強さ」と訳したりします。「何かあってもまた立ち直れる力」のことです。私が最初にこの概念を知ったのは、ずっと昔のこと、夏休みに宮古島に遊びに行ったときのことです。島の耕地の大部分はサトウキビなのですが、それがまっすぐに立っているのではなく、どのサトウキビもまるで地面に寝ているかのように、横になっていたのです。
「どうしてサトウキビが寝ているのですか?」と地元の方に聞いたところ、「台風が来たからね」とのこと。
このサトウキビは、もともとは立って生えているのですが、宮古島にはよく台風がやってきます。強い台風が来たときにしっかり立っていると、ポキッと折れてしまう。ですから、強い風が吹いてきたら自分から倒れて(?)風を避けるよう、何代もの品種改良を経て、そういうサトウキビにしたそうです。
風に抵抗するのではなくて、倒れる。それで、風が弱くなると立ち戻ってくる。この「しなやかな強さ」をここのサトウキビは持っているから、台風が来ても生き残れるんだ~!と感動したのでした。
当時はまだ「レジリアンス」という言葉を知らなかったのですが、この話はとても面白くて、しなやかな強さという概念はその時からずっと自分の中に残っていました。
今回の大震災で、よく「東北の人は強い」と言われます。石巻や気仙沼の被災地にお邪魔し、地元の方々とお話ししたりして、「でも、その強さは、ある人一人の強さではなく、この地域には“強い風に倒されても、立ち直れる土台があるからこそじゃないかな」と思いました。それは、地域の人々の強いつながりだったり、暮らしを支える歴史や伝統・文化だったり。しなやかな強さ(レジリアンス)なのです。
一方、今回の大震災は、日本の社会や産業がこの「しなやかな強さ(レジリアンス)」を失っていたことをまざまざと見せつけらました。
たとえば、震災後、物流が完全にマヒしました。大きな震災の後、一時的にいろいろなものが止まるのは仕方がないとしても、かなり長期間物流がマヒしてしまった。それは、「何かがあったときに、かなり長期間マヒするような構造になってしまっていた」ということだと思います。「一時的には止まるけれど、その後しなやかに回復する」といった物流システムではなかったということではないでしょうか。
同じことが「生産」でも起こりました。日本の多くの企業は、部品が調達できなくなり、さまざまなものが足りなくなって、工場の生産をストップしなくてはなりませんでした。日本国内だけではなくて、世界の工場でも同じような状況になりました。
それはどうしてかは、当時の新聞に書いてあります。「特定の1社から部品を調達すれば、まとまった数になるので安く仕入れることができると、調達先をしぼって1社だけに依存する構造になっていた。そこが今回の震災のように、何らかの理由でダメになると、全てがストップしてしまう」。
これは、何も問題がないとき、つまり「平時」には一番効率の良い方法ですよね。大量に発注して値段を安くする、それが競争力を高め、売り上げの増加にもつながる、という形でいい循環が回っていた。しかし何かあったときのしなやかに回復する力は、実はこの構造では弱かったことがわかりました。
日経新聞にもわかりやすく、このような解説がありました。「各企業は、生産や販売に無駄な時間をかけたり、在庫を持ったりしないですむ体制づくりを目指してきた。ジャスト・イン・タイムという生産方式がトヨタから始まって、世界に広がっている。ただ、今回のように、部品の供給が止まると、すぐ生産停止に追い込まれるという弱点も抱えている」。
物流にしても生産にしても、昔のシステムではあちこちに在庫がありました。しかし「それでは効率が悪い」ということで、在庫を持たない、コストが安い、効率がいい仕組みに変えてきたのですよね。
そうして、短期的な経済効率を重視するあまり、(平時にはその重要性が見えにくい)中長期的なレジリアンスを失っていた、ということではないかと思うのです。
これからの時代を考えると、世界的には人口やさまざまな圧力、競争が増大し、国内的には人口も市場も縮小し、高齢化・過疎化が進む中、温暖化やエネルギーなど様々な問題が悪化していくという、将来が先細りになっていく社会です。
このような状況の中で、それでもどうしたら、しなやかに強く生きていくのか、しなやかに強い地域や社会をつくっていくのかを考えないといけない。
短期的な経済効率だけでなく、短期的にはコストアップや効率ダウンに見えたとしても、中長期的に、何かがあったときにも「それでもしなやかに強く立ち直れる強さ」も重視し、企業経営や社会づくりに組み込んでいかなくてはならない。そうしないと、本当に幸せな社会にはならない。そう思うのです。
レジリアンスに富んだ社会とはどんな社会でしょうか? 何がレジリアンスを創り出すのでしょうか? どのように組織や社会に組み込んでいったらよいのでしょうか?
quated from 「枝廣淳子の環境メールニュース」 http://www.es-inc.jp
引用・転載は出所を添えて、ご自由にどうぞとのことなので、ほぼそのまま転載。e`s 「しなやかな強さ(レジリアンス)のある社会へ (2011.07.21)」
http://www.es-inc.jp/lib/archives/110722_043144.html
◆次回へのメモ。
現代社会における、社会システム、生産・物流システムのレジリアンス。都市のレジリアンス。
自然のレジリアンス。人間の営みのレジリアンス。
時間のあるときにでも、何か書きたいなー。
2011年7月24日
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『場所の現象学』エドワード・レルフ著、高野岳彦ほか訳『場所の現象学』ちくま書房(ちくま学芸 文庫)、1999年。 「人間の経験における場所の意義はそれよりもはるかに奥深いものであるということは、破壊しよう とする外部からの力に対抗して自らの場所を守ろうとする個人や集団の行動を見れば明らかだし、ま たホームシックや、どこかの場所に対して郷愁を感じた経験のある人なら誰もが知っていることであ る。人間的であるということは、意味のある場所で満たされた世界で生活するということである。つ まり人間的であるということは、自らの場所を持ち、知ることである。」(pp25-26)
「私たちの日常生活においては、場所は、単に位置や外見によって記述できるような明確に独立し て定義される実体としては経験されない。むしろそれは、場所を取り巻く背景、景観、儀式、日常の 仕事、他の人々、個人的体験、家庭への配慮とのかかわりなどが渾然一体となった状況において、そ してまた他の場所との関連の中で感じられるものである。」(p81)
場所のアイデンティティとはどのようなものであるか。場所のアイデンティティの基本的要素は物質的 要素、人間活動、意味の3者である。そしてさらに、これらを結びつけ含有するものがある。 「それは、『場所の精神』、『場所のセンス』、『土地の気風(ゲニウスロキ)』のように、特徴あ るいは個性という言葉に関係したあらゆる言葉で様々に呼ばれてきたアイデンティティの属性である。 明らかに場所の精神は、地形や外見、経済的機能や社会的活動、および過去の出来事と現在の状況か ら引き出される特定の意義伴っているが、これらの単純な総和とは違う。場所の精神は、アイデンティ ティの基本要素が根底から変化しても永続することができる。デュポスは次のように記している。『際 立った特徴は変化にもかかわらず存続する。イタリア、スイス、パリ、ロンドンは、多くの社会的、文 化的、技術的変革を経ても各々のアイデンティティを保ってきた。』状況の変化を経ても保たれる場所 の本質は微妙で漠然としており、形式的・概念的な言葉では容易に分析できない。しかし同時にそれ は場所の個性やユニークさを構成するものだから、私たちの場所経験においては、純粋で明白なもの である。」(p127)また、場所のアイデンティティは、その場所のイメージが個人的なものである か、集団的なものであるか、あるいは社会的に共有されたものかによっても異なったありようを見出 すことができるのである。
場所や景観が作られるとき、場所のセンスや場所への愛着がどんな形で現れるのか。 「人間が必要とするのは土地の切れ端ではなくて、「場所」なのである。それは人間としてのびのび 発展し、自分自身になれるための背景なのだ。この意味での場所はお金で買うことはできない。それ は長い時間をかけて人々の平凡な営みによってつくられなければならない。彼らの愛情によってス ケールや意味が与えられなければならない。」(p185)
「没場所性とは、どの場所も外見ばかりか雰囲気まで同じようになってしまい、場所のアイデンティ ティがどれも同じようなあたりさわりのない経験しか与えなくなってしまうほど弱められてしまうこと である。」(p208) 具体的には、ディズニー化された場所や、ニュータウン、高層建築などによく見出されるような景観 である。これらは、メディアが相互作用するプロセスを構成し、それを通して没場所的な景観が発達す る。また、場所は公共の利益に沿って操作できるものと理解され、機能や技術にかかわる特性や可能 性だけが評価されるような「場所に対する偽物の態度」がそうした没場所の根源であり本質なのである。「没場所性」とは、個性的な場所の無造作な破壊と場所の意義に対するセンスの欠如がもたらす 規格化された景観の形成であると言えるだろう。
「私たちの現代の環境には、喜ばしく魅力的なものがたくさんあり、多くの建物や開発はドラマチッ クで刺激的である。そして、私たちの経験は浅いかもしれないが、それらはまた大きな寛容さを持ち合わせており、没場所性は、場所からの自由をも意味し、日常性は官僚的消費社会のワナとともに、 心地良さと安全さを意味する。 つまり現在の景観は、奥深さと多様さを欠いて過去の地理を根こそぎにしようとはしているけれど も、一般に心地よいまったく効率的な地理をもっている。それは、現代社会に支配的な態度と非常によく調和する景観である。しかし、その特徴が永遠に続くということや、利便性と効率性は不条理さ と没場所性を必然的に伴わなければならないということや、この現在の景観には意義深い場所はひとつもないと信ずることには、何の理由もないのだ。」(p292)
場所は、個人的な、または社会的に共有されたアイデンティティの重要な源泉であり、多くの場合、 人々が意義深く感情的かつ心理的に結びついている人間存在の根源である。場所の「ひとつの可能性 としては、避け難い没場所性の拡大があり、そしていま一つの可能性として、意義ある場所からなる生 きられた世界の構築の手法を確立しそれを適用することによる場所の克服がある。」(p293-294)
意義ある場所を構築していくために、「『ルーツ』や場所への配慮を育む条件を整えることは、お そらく可能だろう。それはやさしい課題ではないし、生きられた世界の場所の設計において、そのよ うな手続きと感情とを複雑に組み合わせていくことがどうすれば可能か、あるいはそもそも可能かど うかは、決して明らかではない。しかし、もし場所が私たちにとって重要なものであれば、またもし 私たちがますます根無し草になりながら地理的移動性と没場所性を増大させていくことに伴う心理学 的結果と道徳的問題について少しでも関心を持つなら、私たちは『意識的で本物の場所づくり』の手 法を開発する可能性を探求しなければならない。(中略)ゴールディが書いたように、『楽しむよりも 耐え忍んだり無視したりしなければならない環境に住むことは、人間らしさを次第に失っていくこと である』」(p306)
場所を守り、また新たに創り出してゆく為には、感じとること、「場所のセンス」が重要だと『場所 の現象学』の中で、エドワード・レルフは述べる。それらは何らかの方法で自動的に達成されるという ようなものでなく、場所に対する本来的な希求に根ざした個人個人の努力によってはじめて可能にな る。そうした人々にとって重要な「場所」がいかにして形成されるのか。またそうした場所を意識的 に、いかにして形成してゆけるのだろうか。
2011年7月24日
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場所は、多くの人々にとって、人間との親しい関係と同じように必要かつ重要なものである。意識的・無意識的にかかわらず、私たちは日々、その場所にいることで、場所の影響を受けているだろう し、また一方で、そこで日々を過ごすことで、「場所」を創り出す一角を担ってもいる。 現実に生き る存在として人間は、場所と切り離されて存在することは出来ない。人間は生まれてから死ぬまで、常 にどこかに存在し、場所と関わりながら生きている。
チェルノブイリのように、ひとつの歴史的事故が、それまで生まれ育っていた地を生存不可能な場所 に変えてしまい、移住を余儀なくされることもある。そうかと思えば、開発の波に揺さぶられ、かつ てとは全く違う景観になってしまった町は日本中、世界中に数多く存在する。水俣の人々は、チッソ による有機水銀垂れ流しによって生まれた公害によって引き起こされたわだかまりを地域全体でうけながらも、いまもその地に生きる。 負の意識をもった場所で生まれ育つことは、アイデンティティに負の意識を付与することにもなるの かもしれない。 人々の記憶は「生きられた場所」に分かちがたく宿り、経験は場所に分かちがたく結 びつけられている。
「人間が必要とするのは土地の切れ端ではなくて、「場所」なのである。それは人間としてのびの び発展し、自分自身になれるための背景なのだ。この意味での場所はお金で買うことはできない。そ れは長い時間をかけて人々の平凡な営みによってつくられなければならない。彼らの愛情によってス ケールや意味が与えられなければならない。」( エドワード•レルフ『場所の現象学』 p185)
場所とは、意味をもった空間のことである。「生きられた世界」、つまり日々の営みの中で、私た ちが暮らし、知識を得、直接に経験する背景や状況となるものである。場所は、多くの人々にとっ て、人間との親しい関係と同じように必要かつ重要なものである。意識的・無意識的にかかわらず、私たちは日々、その場所にいることで、場所の影響を受けているだろうし、そこに生活する人々のアイ デンティティの基盤を提供しするものでもある。
ドロレス・ハイデンが『power of place(邦題:場所の力)』で語るように、場所を守り、また新たに創り出してゆくことは、何らかの方法で自動的に達成されるというようなものでなく、場所に対 する本来的な希求に根ざした個人及び集団の努力によってはじめて可能になる。そうした人々にとって重要な「場所」がいかにして形成されるのか、またそうした場所を意識的に、いかにして形成してゆけるのだろうか。
「場所の力、それは、ごく普通の都市のランドスケープに秘められた力である。共有された土地の中に 共有された時間を封じこみ、市民の社会的な記憶を育む力である。」とドロレス・ハイデンは述べている。「場所の力」は、何気ない日々の営みの中で、自然と形成されるものであるとも言えるだろう。そこに人との思い出があれば、どんなものでも、場所の力を果たせるような装置に自然となりうるのだと思う。
2011年7月24日
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私は「場所と人との関わり」に強い興味を持っているようである。場所との関わりが壊されたり何らかの形で変化する例は、 観光地化による地域の改変や、地震などの自然災害による壊滅的な被害、 環境問題などにおいて顕著に見られる。
自然的原因、人為的原因、どちらであるかにかかわらず、場所 との関わりが壊されたり何らかの形で変化するような困難の中で、人は改めてその場所と向き合う。 その中で、新たな「人と場所」との関係性が立ち現れ、変容し、その場所に「自分たちの場所」とし ての刻印がどのようになされていくのかを考えてみたいと思う。
2011年7月18日
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2011年7月18日
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エクスキューズはいらない。本当に必要なことは何か、考えること。
2011年7月18日
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bricolage・・・
「寄せ集めて自分でつくる」「ものを自分で修繕する」という意味の仏語。理論や設計図に基づいて行うのではなく、すでにあるものやその場で手に入るものを寄せ集めて、新しいものをつくりだすこと。